盤珪さん
目 次
一 はじめに
二 不生の仏心(ふしょうのぶっしん)
三 真実の世界
四 法と無明
五 慈悲の心と自然
六 法界と宇宙
七 第九交響曲
八 不滅の恋人
九 むすびに
その昔、十七世紀の日本臨済宗の禅僧に盤珪(ばんけい)という名僧がおり、不生禅(ふしょうぜん)と呼ばれる独自の仏法を悟り、その深遠な世界を日常の話し言葉でかみ砕くように説き明かし大衆を導いたという。
仏法は万人の範とすべき真理であり、その教えに従って修行すれば悟りに達するとされている。そして、仏や仏弟子が大衆を教化(きょうけ)するためにその教えを説くことを説法という。法華経寿量品(ほけきょうじゅりょうほん)にも「常に説法教化して、無数億の衆生をして仏道に入らしむ」と記されている。
しかし、仏の教えは諸行無常、諸法無我、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)の三法印(仏教の三つの旗印)のようにその概念を頭で知ることはできても、その真理を体得することは常人にはできないことである。たとえ体得できたとしても、それを大衆に分かりやすく説き明かすことは至難の業である。
歴史上、高僧・名僧と称えられた人物は少なくはないが、高邁(こうまい)な教えにもかかわらず無学な者にも理解が可能な説法をして大衆に親しまれた人物は稀である。そこにはお経を学ぶだけでは得られない万人の琴線に触れる真理が潜んでいるのではないだろうか。
そのような観点から本書では大衆の一人として「盤珪さん」の教えに学んで見ようと思う。
盤珪は一六二二年(元和八年)、播州揖西浜田村(現在の姫路市網干区浜田)の地に医者の三男として生まれた。
幼い頃から父の影響で儒学を学んだが、中国の四書の一つである「大学」を読んで「明徳」という文字が強く心に懸かり、どうしても得心できなかったことが仏道に入った動機とされている。
ちなみに、大学の説く中心眼目は「明明徳」「新民」「止至善」の三つであり、「学問(儒学)の仕上げとしてなすべきことは、明らかな徳性を明らかにすることであり、それによって民衆の心を新鮮にすることであり、また究極の境地に止(とど)まることである」という意味合いの文章から始まる。
そして、二十六歳にして狭い土室(つちむろ)の中で断食と瞑想の苦行の末ついに悟りを開いた後、網干(あぼし)の龍門寺を中心に「不生の仏心」を説いて各地の寺を再興し、七十二年の生涯を通じて大衆に慕われることその受戒者は五万人と伝えられている。それはどのような説法であったのか誠に興味深いことである。
幸いなことに、盤珪の説法を一言も聞き逃すまいとして受講者の残した聞(きき)書きが「盤珪仮名(かな)法語」として伝えられているので、そこからいくつかを抜粋してみよう。
「禅師のいわく、仏心は不生(ふしょう)にして霊明(れいみょう)なものに極まりました。不生なる仏心、仏心は不生にして一切事がととのいまするわいの。したほどに皆不生でござれ。不生でござれば、諸仏の得ておるというものでござるわいの。尊いことではござらぬか。仏心のたっといことを知りますれば、迷いとうても迷われませぬわいの。これを決定(けつじょう)すれば、いま不生でおるところで、死んでのち不滅なものともいいませぬわいの。生ぜぬもの滅することはござらぬほどに、そうじゃござらぬか。」
このように盤珪の不生の仏心は生まれる前から人間に備わっているので、生死に関係なく存在するものであり、あえて不滅を説く必要はないという。
したがって、浄土教のように死後に成仏するとは説かないし、あるいは真言宗などのように修行により即身成仏するとは説かない。また、他の禅宗と違って坐禅により仏性に目覚めるとも説かない。すなわち、念仏も必要ないし、厳しい修行も坐禅もいらないのである。
その仏心はどのようなものかというと霊明なものであるという。霊明とは霊妙かつ神明(しんみょう)なことであり、人間界を超越した存在なのであろう。
しかし、私のような凡人が簡単にそのような存在になれるとは思えないのであるが、そこのところを盤珪はどう説いているのであろうか。
「仏心は不生にして霊明なものじゃと、皆思わっしゃれい。ひとたび行った所は、何年経てもあれ覚えていようと、常には思いはしませぬどもよう覚えていまして、忘れはしませぬ。我行った所へ、また余の人が行きましたら、百里わきで話ましても、行った同志はどこで話しても、拍子が合いますわい。又道を行きますに、向こうから大勢の人が来まするに、片寄ろうと思う念を、人々は生じませねども、向こうより来る人に自然と行き当たりもせず、大勢の人の中を通りても、あちらへくぐり、こちらへ片寄りて、ぬけつ、くぐりつ、せう(しよう)と思う分別の念を生ぜねども、自由に道を歩きますわいの。仏心はこのように不生にして、霊明なものでござって、一切の事がととのいますわいの。もし万一自然は片寄ろうという念を生じて片寄りますは、霊明な徳用でござるわいの。しかれども片寄る方へは、念を生じて行寄りますけれども、足元には、一足一足に念を生じて歩きはしませぬ。されども自然に歩くは、不生で歩くというものでござるわいの。」
盤珪の説法は平易な言葉で語られており、その内容もそれまでの仏教とは違い特別の難しい努力は求めていないので、聞く者はありがたい教えであると思うかも知れないが、根本的には霊明なものを確認するという作業があるはずである。
しかし、盤珪はそのような困難な作業を大衆に求めてはいない。その困難なところは盤珪自身が苦心惨憺努力して確認したので、それを信じればよいとするのである。
すなわち、分別(認識判断作用)の念は不要なものであり、仏心に従って生きよと説くのみである。
人間は死ねば土に帰し、一切は消滅して何も残らないというような考えは分別の念であるというのである。
私のような凡夫はこのような分別の念が常に沸き出てくるので、それを生じさせないことなどは到底不可能だと思うのであるが、盤珪は不生の仏心を信ずることによりそれができると説いている。
すなわち、信心が決定(けつじょう)すれば迷いたくても迷えないという。
中国における仏典解釈の歴史の中で頓教(とんきょう)と漸教(ぜんきょう)の区別が論じられたが、前者は仏陀が悟りを開いてすぐ後にそのまま説いた教えであり、後者は浅い教えから深い教えに次第に説き導く教えという意味である。華厳経が前者であり、阿含経(あごんぎょう)、般若経(はんにゃきょう)、維摩経(ゆいまぎょう)、法華経(ほけきょう)、涅槃経(ねはんぎょう)などが後者とされている。
あるいは大衆がそれによってすぐに悟りを得ることのできる教えが頓教であり、長い間修行して少しずつ悟りを開く教えを漸教ともいう。
このような区別からすると、盤珪の不生禅は長い修業は不要としているので頓教であるようにも考えられるが、盤珪がゆかりの地を旅から旅へ一生涯駆け巡り、何度聞いても妨げにならず、中途からの人にも次につなげるとして同じ説法を繰り返し説き続けた理由はどのようなところにあるのであろうか。
頓教とされる華厳経ではあらゆる事物・事象が互に縁となり、自在に限りなく交流・融合して起こっているという法界縁起(ほっかいえんぎ)とか重重無尽といわれる思想が説かれており、これは一即一切・一切即一(いちそくいっさい・いっさいそくいち)などと表現されている。
しかし、このような高邁(こうまい)な思想は頭では一応理解できたつもりでも、我が身に関連づけることは容易にはできないことである。あたかもニュートンが発見した万有引力の法則を知っていても、日常生活においては重力をさほど実感していないがごとくである。これらは無限の概念が根本になっているので、頭の中でしか理解できないのは当然のことなのであろう。
それと同様の理由で、盤珪は自ら悟った不生禅に確信を持ちながらも、大衆にその教えを染み込ませようとして、何度も同じ説法を繰り返して説き続けたのではないだろうか。
「さて、不生な(の)が仏心、仏心は不生にして、一切の事がすらりすらりと能く調ひまする。ひよつと仏心を念(いつも心に思うこと)に仕替へ(組み替え)ますれば、はや不自由になりますわいの。譬(たと)へば、女中方が縫物(ぬいもの)をしてござる所へ、人が来まして、咄(はなし)を仕掛けまする。不生にて縫うたり聞いたりしまする迄は、両方が調ひまするに、若し、一念を生じまして、応対せうと、咄に機(気)が付きますれば、咄を聞き落として、咄の埒(らち)が明きませぬわいの。これは、仏心が不生の場を退き、仕替へまして、念が一事に貪著(とんじゃく)しまして、外(ほか)の事は欠けて、不自由になりまする」
このように、その平語による教説は誠に簡素で大衆向きであったが、あくまでもそれを得心させるには長期にわたる熟成の過程が不可欠だったのであり、そのような宗教的情熱を保持し持続できる人は希(まれ)であろう。
盤珪は分別のような身の上の批判ですむことは難しい仏法も厳しい禅法も説く必要はないとするが、それは逆説であり実は五根(五官)を抱える人間にはそれが最も困難なことなのである。これは盤珪のような厳しい修行を経験して初めて言えることであろう。
一方、漸教とされる般若経ではたとえば空の用語を用いないで空を説く経典として知られる金剛般若経(こんごうはんにゃきょう)に応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん・まさに住する所無くしてしかもその心を生ず)と説かれているように、執着心からの開放に重点を置いている。また、初期の仏典であるスッタニパータにも「自我に執着する見解を破り、世間を空として観察せよ」あるいは法句経(ほっくきょう・ダンマパダ)に「空虚な家屋に入って心を鎮める」とある。
このような空の思想は執着心が誰でも簡単には御(ぎょ)し得ないことが体験的に分かっているので、じっくりと取り組むことができる反面その流れに乗る事は容易ではない。
このように考えると、わが国において仏教が大衆から離れてしまった今日において盤珪の思想は魅力的である。その理由は欲界の真っ只中に忙しく暮らしている現代人に漸教のような時間のかかる教えはほとんど受け入れられそうもないが、不生禅は熟成の必要はあるものの取りあえずは得心できるように思われるからである。
ここのところについて、盤珪は次のような言葉を残している。
「身ども廿六(にじゅうろく)歳の時、播州赤穂野中村にて庵居の時、発明せし道理、又道者(道を究めた賢人)に相見し証明(悟りを証すること)を得し時と今日と、其の道理に於いては、初中後、一豪許(いちごうばかり)も差(たが)ふ事なし。然れども法眼円明(ほうげんえんみょう)にして、大法に通達し、大自在を得たる事は、道者に逢ひし時と今日とは、天地懸隔(てんちけんがく・天と地との隔たりがある)也(なり)」
近年脳医学の発達により右脳と左脳の働きの違いが分かってきているが、頓教は五官では捉えられないものを宇宙的に直観するので右脳的であり、漸教はあれこれと論理的に説くので左脳的である。
人間界を超越した霊明な仏心を知るには論理よりも直観によるほうがより適切な方法といえるかもしれない。絵画でも極彩の細密画よりも墨で描いた鳥羽絵(とばえ)の方が本質を描写しやすいと言う人もいる。
直観によって掴んだ悟りなので説明は難しいのであるが、盤珪は平易な言葉でたとえ話しを用いながら懸命に大衆に不生の仏心の存在を説き続けたのである。
物事を説明するときに一番分かりやすいのは対比法である。たとえば白兎(しろうさぎ)を表現するのに真っ白な雪原を背景に描くよりも、黒っぽい森を背景にしたほうがその姿を明示できる。
盤珪が仏心に対比させたのは分別の念であり、身びいきの心とも表現している。それは十二縁起に言うところの無明であるが、盤珪はそのような面倒な仏法はことさらに説かず、仏心と身びいきの心だけを対比しているので誠にシンプルである。そして、ひとたび仏心に立ってしまえば不生で歩くことができるし、迷いたくても迷えなくなると説くのである。
盤珪の説法は簡明であると同時に的確である。これをゴルフにたとえてみるとしよう。
ゴルフはティーグランドからボールをうちグリーンのホールまでの打数が少ないことを競うスポーツであるが、アマチュアはティーグランドから目標めがけてできるだけ遠くに飛ばそうとするから、ボールコントロールが乱れてコースから外れてラフや林の中に打ち込んだり、池や小川などの障害物に捕まってしまう。そうなるとさらに無理をして、打ちにくい場所からも強引に攻めていって無駄な打数を重ねてしまうのが常である。
しかし、一流のプロの選手はそのような無理を決してしない。そのためにティーグランドに立った時にあたかも自分がグリーンのカップ位置にいることを想定するのである。そして、その位置からティーグランドに向けて逆方向に一番安全なコースを選定する。そうすることによって自ずから障害物を避けることができるのである。もちろんショットがぶれることはあるが、目標から大きくはずれることはない。さらに、超一流の選手になるとショットの際の三十秒ぐらいはあれこれと考えずにボールに集中して、それ以外の時間は楽しいことを考えてリラックスしているという。
盤珪の説法もまた仏心を掴んでいない者がそれを掴んだと想定してそれを信じることにより、分別や身びいきの心という障害物を遠ざけることができ、それによって無駄な修行をしなくても最もよい道筋で仏心を掴むことができ、人生を楽しみながら迷いのない不生の道を歩むということであろうか。
如来蔵経(にょらいぞうきょう)に「一切の衆生は如来を胎(はら)に宿している」という句があり、如来蔵思想の元になっているが、その胎児を産むことはなかなか困難なのである。泡沫のような有為無常(ういむじょう・諸行無常とこと)の俗事のために苦悩する迷界の定めである世法の中にあっては人々は身びいきの心に捉えられがちで、昔から多くの仏道者が大衆を悟りの世界に誘おうとしたが、それは困難な道であったといえるであろう。
それを盤珪は禅のプロとして大衆に分かりやすく平易な言葉で説き示し、悟りへの最善の道を示そうとしたのである。
不生禅は不生の仏心とだけ言って仏法・禅法を説いていないと語るのであるが、盤珪の次の言葉を見るとそれはやはり仏法なのである。
「兎角(とかく・とやかく言うこと)はない、皆の衆、不生の仏心には迷ひ無い事を知らしやれい。一切の迷ひと申すものは、心の底に有つて起こるやうに思はしやるけれども、本底(心底)に有つて起りはしませぬわ。みな、人の我欲のきたなさ、身のひいきの強さに、境縁(相対関係)に対し、むかひな物(対象物)に貪著(とんじゃく)し、時々に、堪へられず我(わが)迷ひを出かして置いて、人が迷はすように思ふは、愚痴なことでござらぬかいの。その境縁に対して、我(わが)迷ひを出かさぬに、どこに迷ひが有るものでござる、有りはしませぬ。さて、かうしたことでござる程に、少しの事にも迷ひを出かし、仏心を迷ひに仕替えぬ(組み替えない)やうにさしやる事、肝要と申すものでござる」
仏陀は生老病死などの苦からの解脱のために苦集滅道(くじゅうめつどう)の四諦(したい)と八正道(はっしょうどう)を説き明かした。苦諦は迷いの生存は苦であるという真理、集諦(じったい)は欲望の尽きないことが苦を生起させているという真理、滅諦は欲望の滅した状態が理想の境地であるという真理、道諦は苦滅にいたるためには八つの正しい道によらなければならないという真理である。八正道は正見、正思、正語、正業(正しい行い)、正命(正しい生活)、正精進(正しい努力)、正念、正定(正しい精神統一)であり、初転法輪(釈尊の成道後初めての説法)で説かれたという。
このように仏法は生老病死などの苦を中心にしてそのような現実界からの解脱を目指している。
初期仏教の詩集であるスッタニパータにも「生死の彼岸に達する」と説かれているように、先ず生があって最後に死に至ることを前提にして、それらを超越する境地を求めるのである。
しかし、盤珪の不生禅は不生の仏心という生死を超越したところを出発点とするのである。
盤珪は私たちの身体は親から生まれたのであるが、その身に伴っている仏心はそのとき生まれたのではなく、元々存在しているという。だから不生なのであるが、どこに存在するのかについては述べていない。それは直観であるから左脳的な理屈では説明できないのであろう。さらに言えば、現代科学においても人間の心が脳にあるのか、あるいは心臓などのほかの場所にあるのか定かではないと言うのであるから無理もないことである。
釈尊は成道(じょうどう)後、他の思想家たちから常・無常、有限・無限、霊魂の存在などの十四の形而上学(けいじじょうがく・ものごとの根本原理を探求すること)的質問を受けて、論争を挑まれたが、沈黙を守って答えなかったと伝えられている。これを無記とか捨置記(しゃちき)というのであるが、盤珪は不生の仏心という生死を超越した概念についていろいろなたとえ話を用いて懸命に大衆に説き続けたのである。
そういう意味では、釈尊の方便(衆生に真実を明かすまでの仮の教え)による説法は盤珪のように直裁ではなく、大衆に対して仏法を広めるためには妥当な方法なのであろう。
人それぞれの能力に応じて、菩薩(慈悲をもって利他行に勤める人)には六波羅蜜(ろくはらみつ)を説き、縁覚(独自で悟りを開いた人)には十二縁起を説き、声聞(教えを聴聞する出家・在家の人)には四諦をというように別々に説いたからである。
六波羅蜜は布施・持戒・忍辱(にんにく・苦難を耐え忍ぶこと)・精進・禅定・智慧の六つの徳目がある。このうち布施には財物を分け与える財施のほかに仏の教えを与える法施があり、これは最も困難なことであり、世に名医が少ないのと同様にこれを行ずることができる仏道者は少ない。大乗仏教の経典が観世音菩薩や地蔵菩薩のような菩薩を立てて説法している所以(ゆえん)であり、おそらくは盤珪も自分の教えに確信を持ちつつも、それが末永く伝達されて行くのかについては一抹の不安を抱いていたことであろう。
盤珪の説法は簡明で誰にでも分かるのであるが、その根本のところは唯識(ゆいしき)思想に通じているように思われる。唯識は外界の事物はみな空であり、あらゆる存在はただ自己の心(識)の現われにすぎないと考えるからである。
唯識思想において心は眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識のほかに末那識(まなしき)・阿頼耶識(あらやしき)の深層意識に分類されるが、究極的にはこれらの心はすべて雲散霧消すると考えるので西洋思想の唯心論とは根本的に異なる。
そして、虚無思想のようにすべてが消えた後は何もなくなるかというとそうではなく、分別や縁起とは無関係の円成実性(えんじょうじつしょう・完成された真実)が唯識観というヨーガの体系的観法の実践によって現れるとされる。これが盤珪の不生の仏心に相当するのではないかと思う。
しかし、盤珪の説法を聞いた大衆は唯識とは異なりヨーガを実践するわけではなく、その説法を信じて行くだけなので、不生禅が三代で途絶えてしまったということは盤珪に代わって不生の仏心を説き続けることのできる菩薩は現れなかったということであろう。
ここで、不生の仏心を聞き知ることとそれを伝える菩薩になることとはどのように違うのかが問題になるが、それは盤珪に直接聞いてみなければわからないことなので、私なりに想像してみることにする。
最初に思うのは、まったく白紙の人に見たことも聞いたこともないことを説明することの難しさである。それは鯨を見たことのない人に潮を吹く巨大な海の生物を説明するようなものである。おそらくさまざまな奇妙な鯨が登場するであろう。不生の仏心は姿かたちがないのでなおさらのことである。
そのような説明困難なことをあえて行う仏道者の動機は、身びいきの心から抜け出ることによって得られる霊明な世界を大衆にも伝えたいということだと思う。
それを天界とか仏界というのであろうが、この世とはまったく別の世界であり、その世界を知った聖人は人々をどうしてもそこに導いて行きたいと考えるのであろう。
いずれにしてもそのような仏界をもし現世で味わえるのであれば誠にありがたいことである。
盤珪の不生の仏心はそれを真剣に求める人にはいつでも姿を現すものであり、もともと不生であれば滅びることはないので不生不滅と表現してもよいのであるが、身びいきの心を持つ人間が不滅になることはないということを戒めて、盤珪は不生とは言うが不滅とは言わなかったのである。
ただし、そのような不生の仏心が実在するかどうかは悟って見なければ分からないのであるが、盤珪は「ひとたび行った所は、何年経てもあれ覚えていようと、常には思いはしませぬどもよう覚えていまして、忘れはしませぬ」とたとえ話のように説くのである。
しかし、これをたとえ話と受け取るのかどうかは問題である。盤珪は「誰でも一度はそのような真実の世界に行ったことがあるのだよ」と言っているのかも知れない。そうすると何となくそのような気にならないでもないが、それはあくまでも不生の仏心を信じることによって担保されるものである。
仏教において信とは一切の疑いを持たないということであり、これは仏を信仰するか否かというような選択の問題ではなく、これによって人は身びいきの心に影響されることなく迷路を通り抜けることができるのである。盤珪が「仏心のたっといことを知りますれば、迷いとうても迷われませぬわいの」と説く所以である。
たとえ、そのような真実の世界が存在しなくてもその事実が確認できるかも知れないところに信の大いなる価値があるといえるであろう。
盤珪は信という難しい言葉は使っていないがそれを巧みに教えているのであり、不生禅以外の坐禅を始め南無阿弥陀仏の念仏や南無妙法蓮華経の唱題行などのいずれの仏道においても信というものがその要(かなめ)であることが理解される。
ここのところを盤珪は次のように言っている。
「不生不滅と白(もう)すことは、昔から経録(漢訳経典)にもあそこ爰(ここ)に出てござれども、不生の証拠がござらぬ程に、それ故、皆人が唯(た)だ不生不滅とばかり覚えて居ますれども、たしかに骨髄に徹し決定(けつじょう)して、不生な事を得(え)知りませぬわい」
昔の日本人は先祖の霊魂は鎮守の森の奥山に住んでいると信じていた。姿は見えないのであるが、そこは霊魂の永遠に住む空間であり、立ち入ることを許されない神聖な場所として人々に大切に守られてきた。
現代人はそのような場所である伊勢神宮や日吉(ひえ)大社などに多くの人々が熱心に参詣するのであるが、なぜであろうか霊魂の存在を信じない人が圧倒的に多く、ましてや自分がどこからやってきたのかなど考えようともしない。
しかし、昔のおとぎ話の中では子供は桃太郎のように桃から生まれたり、かぐや姫のように竹から生まれたというような設定がなされているように、霊魂が自然の中に存在し続けるという古代からのアニミズム(自然崇拝)の思想は人間の生命の誕生についても大自然と結び付けて掴まえている。
もちろんそのようなことは現実には起こり得ない現象なのであるが、そのような設定によって人間は大自然と密接不可分の存在であることを象徴的に表現したのであろう。
これは子供を天からの授かりものとして大切に育てるという思想に通じていると思うが、いずれにしても人間はこの世に生きているだけの存在ではないと捉えられていたので、現代人の常識とは乖離(かいり)している。
しかし、私たちはこれを原始的な思想として一笑に付するだけでよいのであろうか。
アニミズムというのは単に霊魂の存在を認めるだけではなく、時間や空間を超越した真実の世界を把握したことから生まれた思想であると考えることもできるからである。
このような考察の余地があることは、物理学において量子論の発展に伴い、アインシュタインの相対性理論と不一致が生まれていることからも窺われる。すなわち、これまで絶対正しいと考えられてきた現代科学はまだ不完全なのである。
そして、鎮守の森は霊魂の存在する空間なのであるが、人間からかけ離れたところにあるのではなく、生活に密着した集落の近くに設定されているところが面白い。
ここで、盤珪の不生の仏心に立ち戻ってみると、盤珪は集落から鎮守の森を望んでいるのではなく、鎮守の森から集落を見渡しているように思われる。真実の世界から人間界を見ているのであり、人間がどこからやってきたのかを観ているようである。
これは単に視点の違いというのではなく、そもそも視界の広がりが違うのであり、一つのものをあらゆる方向から同時に観ているのである。
そのように全方位で事物が見えると疑いというものが生じないが、私たちのように見えないものがたくさんあると常に疑念が湧き出てくる。
しかし、ひとたび鎮守の森からの眺めを目の当たりにした者は、疑念が消えていつの間にか人間の身びいきの生活から虚空無辺(こくうむへん・かぎりなくひろいさま)の別世界に入り込むことになるのであろう。
そのように考えると、人間はどこからやってきてどこへ行くのかおぼろげながら見えてくるようである。盤珪はそこまでは言及していないが、霊明なもので一切の事が整うのであるから盤珪の仏心とはおそらく時空を超えた真実の世界であると思わないわけにはいかない。
したがって、盤珪の不生禅はその相承(そうじょう)が絶えて久しいが、そのいのちは時空を超えていつでも蘇るはずである。
それでは盤珪の観た真実の世界とはどのようなものなのであろうか。
ここに盤珪五十一歳の時の偈(げ・仏力をたたえた詩)が残されている。
「一超、直入す、正法(しょうぼう)の門。
驟歩(しゅうほ)して云う、
脚下の活路、乾坤(けんこん)を透尽(とうじん)す。
峭々巍々(しょうしょうぎぎ)、当軒に大坐す。
人間、天上、独り世尊と称す。
大道、変移を絶す、
豈(あに)、汝の護持に干(あずか)らんや。
虚空、尽くる日有れども、
正法、下衰(かすい)無し」
これを意訳すると、
「私はひとっ跳びに正しい仏法の門に入った。
そして歩みを休めることなく云う。
自分の足元に進み行く道は天地を透徹し尽くしている。
険しくそびえた高みに悠々と腰を下ろし、
人間界と天上界において独り世尊と名乗る。
その大いなる道は転変移動の世界から隔絶しており、どうして汝の加護を頼む必要があろうか。
たとえ宇宙が消滅する日があっても、この正しい仏法は消え衰えることがない」
これを読むと、やはり盤珪はこの世にありながらすでに鎮守の森に住んでいたようである。盤珪は七十二歳で亡くなったので、この偈を作ったときはまだ本人の言う法眼円明の境地には到達していなかったかも知れないが、すでに法は完成していたと言うことはできるであろう。
「実に、熱心に禅定している僧侶に、諸法が顕現(けんげん・あらわになること)するとき、彼のすべての疑惑は消え去る。
なぜならば、彼は縁起の法を知っているから。(初夜の偈)
実に、熱心に禅定している僧侶に、諸法が顕現するとき、彼のすべての疑惑は消え去る。
なぜならば、彼は諸縁の滅尽を知ったから。(中夜の偈)
実に、熱心に禅定している僧侶に、諸法が顕現するとき、あたかも太陽が虚空を照らすように、悪魔の軍隊を粉砕している。(後夜の偈)」
これは釈迦が三十五歳の十二月八日(日本ではこの日が釈迦の成道日とされている)に菩提樹の元で悟りを開いたときに作ったウダーナ(感興偈)であり、釈迦の法の根本となるものである。
そして、これは近代仏教学がインドの古代語であるパーリ語から直接翻訳したものなので、盤珪がこの偈を知る由もない。
しかし、この釈迦の偈と盤珪の偈には表現は違うが共通した境地があるように思われる。
釈迦は初夜(夕方)から中夜(真夜中)を過ぎ後夜(明け方)にいたる経過の中で、「縁起の法(因縁があって因果が生じること)を知り、さらにそれらの諸縁の滅尽を知って、ついには悪魔の軍隊を粉砕する」のに対し、盤珪は驟歩(しゅうほ)して「脚下の活路、乾坤(けんこん)を透尽して当軒に大坐し、さらにその大道は変移を絶し、ついには虚空、尽くる日有れども、正法、下衰無し」と云うのである。
そのようなわけで、盤珪の観た真実の世界とは菩提樹の元で釈迦に顕現した諸法に他ならないように思われる。
しかし、先に釈迦と盤珪の説法の取組み姿勢が違っていることに触れたように、釈迦が人々の機根(きこん・こころね)に応じてさまざまに方便を用いて説いたのに対して、盤珪の説法は老若男女や貴賎の別なく誰に対しても不生の仏心を説くだけであり、徹底して簡明なのが特徴である。そこでは経典の読誦(どくじゅ)や仏像崇拝はもちろんのこと念仏や題目を唱えることもなく、禅でありながら坐禅を修することもない。
したがって、釈迦の仏教がインドから中国を経てわが国に伝来してくる間にいろいろな経律論(経典・戒律・注釈書のことで三蔵という)の形をとって伝えられ、宗派もさまざまに分かれていたのであるが、盤珪に至って再び釈迦の悟りの根本に立ち返ったと言うこともできるのではないだろうか。
釈迦は人間の生老病死の苦について疑問を持ち、一方の盤珪は中国の古典である「大学」の中の「明徳」について疑いを発し、それぞれがその答えを求めて若い頃から難行苦行に励んだことは同じであった。そして共に体力の限界まで修行したがその答えは得られないままに、釈迦は村の娘の捧げる乳粥(ちちがゆ)で、盤珪は村人の差し出した薄粥を飲んで体力を回復したと伝えられている。
そのとき五臓六腑(ごぞうろっぷ)に染み込んだ栄養は単に体力の回復に役立っただけではないように思われる。己の意思に関係なく吸収される粥のエネルギーは五官だけでは捉えることのできない存在を直感させたのではないだろうか。
釈迦の「後夜の偈」には「実に、熱心に禅定している僧侶に、諸法が顕現するとき、あたかも太陽が虚空を照らすように、悪魔の軍隊を粉砕している」となっているが、悪魔の軍隊とは無明(むみょう・明るくない)のことであり我執を象徴している。法句経(ほっくきょう)では「無明こそ最大の汚れである。比丘(男性の僧侶)たちよこの汚れを捨てて、汚れなき者となれ」と説かれている。
それを粉砕する諸法とはいろいろな法のことであり、法とは法令というような意味ではなく、釈迦の飲んだ乳粥のエネルギーのようなもので通常の生活では感じ取れない作用を指す言葉なので、微妙で、覚りがたく、常人の理解を超えるものである。
釈迦が云い残した「法が顕現する」とはどのようなことなのか興味深いことであるが、私にはどうしようもないことなので、盤珪の言葉を頼りに仏心が不生であることを知ることが残された道ということになろう。
涅槃経(ねはんぎょう)の中にある「一切衆生悉有仏性(すべての衆生は仏となる本性がある)」という教説は有名であるが、盤珪はこれを「不生の仏心」と説いているだけのようでもある。
しかし、盤珪の言葉を反芻(はんすう)していると、「人間が覚知していることが全てなのではなく真実はもっと広大である」ということに思い至る。
すなわち、涅槃経の一切衆生悉有仏性は人間は仏となる可能性をもっているだけで、そのためには修行が不可欠であると説いているように読めるのに対して、盤珪は人間は本来仏であるのにそれを知らないだけであると主張しているわけである。
釈迦の初夜、中夜、後夜の偈と盤珪の不生の仏心を合わせて考えてみると、次のような仮説が浮かんでくる。
「人間には法と無明が同時に存在しているが、それらは縦軸と横軸の座標で示すとお互いに反比例する関係にある。無明の力が強ければ法は無限に縮小するし、無明の力が弱まると法は無限に拡大する。無明は時と場所によってさまざまであり、法もそれに応じて一つではないので諸法というが、本質は一つのものすなわち仏心である。」
これを仮に「法と無明の反比例の法則」と呼ぶことにしよう。
科学の進歩で我々は地球が太陽の周りを回っていることやりんごが木から落ちるのは重力があるからということを知っている。
しかし、日常生活で重力を意識している人はほとんどいないであろう。我々は立ったり坐ったり、物を持ち上げるときにさほどの苦労を感じないので、ニュートンが万有引力を発見するまでは重力の存在そのものを知らなかったのである。
ここで人間は常に自己中心に思考する存在であることが明確に知られる。人間は思考の及ばないものは「意外なもの」として処理する傾向があり、未知の世界にはさほど関心がなかったのであるが、科学の進歩がその弱点を補って真実の世界を広げる役割を果たしてきた。そのような意味で科学者は「意外性の開拓者」なのである。
現代は科学万能の世の中でありその信奉者が多いのであるが、釈迦は紀元前にすでに人間の本質に気付き自己中心の思考から離れるために「縁起の法」という客観的観法を作り上げ、それによって人間の心の中にある未知の世界を開拓したのである。
したがって、釈迦は科学者とは手法は異なるが「意外性の開拓者」であったといえるのであり、科学と同様に仏教にも真実の世界を広げる力があると考えることができる。
ここのところを盤珪は「不生な(の)が仏心、仏心は不生にして、一切の事がすらりすらりと能く調ひまする。ひよつと仏心を念(いつも心に思うこと)に仕替へ(組み替え)ますれば、はや不自由になりますわいの。」と説いている。釈迦のように縁起の法を用いてはいないが、念すなわち自己中心の思考をすると不自由になるぞと言うのである。
法句経の中に「健康は最高の利得であり、満足は最上の宝であり、信頼は最高の知己であり、ニルヴァーナ(涅槃のこと・煩悩の火が吹き消された状態の安らぎ、さとりの境地)は最上の楽しみである」という言葉がある。
私たちは自分の健康と満足さらには他人からの信頼を大切にするが、盤珪によればこれらは念であり、意外なことに不自由の元なのである。逆に、これらの無明から離れると法という自由が無限に拡大して涅槃の状態になり、それが不生の仏心であると言うのである。
無明はその言葉のとおりに「明るさが無い」のであり、それに対局するものが盤珪が若い頃から追い求めた「明徳」の答えである「不生の仏心」なのである。
しかし、依然として私たちは自分の健康と満足さらには信頼という他人の評価が最大の関心事であり、涅槃という自己に結びつかない世界にはほとんど無関心であり、「法と無明の反比例の法則」に基づいて考えると、今日の世界は無明の軸に傾きすぎていると言わざるを得ない。
この傾きを正す働きを仏教ではプラジュニャー(般若・智慧)と呼んでいるのであるが、盤珪はそのような抽象的な表現を用いずに「法」を「不生の仏心」と呼び、「無明」を「身びいきの心」と具体的に表現して「法と無明の反比例の法則」をよく説き明かしているのである。
しかし、大衆を導こうとする盤珪の苦心にもかかわらず「不生の仏心」も涅槃と同様に日常生活においては身近な関心事ではないので、言葉だけでは得心しにくいところがあったことは否めない。さらに「身びいきの心」を具体的に説いて大衆を引き付けるか否かは説法者の力量に大きく左右されるところもある。
大乗仏教がプラジュニャー(般若・智慧)を説いてさまざまに発展し、空(くう)の思想により説明されてきたが、総じて言えばこれらの抽象的な仏教用語は仏教から大衆を離反させる性格を与えたといえるかも知れない。
これに対して、わが国においては鎌倉新仏教が興り、仏教が簡素化されて念仏や唱題のほか禅において大衆化が図られたのであるが、これらは仏や法に帰依することを強調して「無明」について説かない傾向があり、釈迦の説法からやや離れてしまったところがあるように思われる。
このような大きな流れの中にあって、盤珪は仏教の根本のところを外さずに「法」と「無明」の関係を示しながら、仏教の簡素化、大衆化を完成させたと言えるであろう。
しかし、盤珪の不生禅は口承の禅であることから、嗣法者が続かずに三代でその法系が途絶える運命だったのであるが、その盤珪のさまざまな説法が「聞書き」として後世に残されたことはまことに幸いというべきである。
これはアイヌ民族の叙事詩「ユーカラ」が知里幸恵(ちりゆきえ)というアイヌの少女によって後世に残されたことを思い起こさせる。アイヌ民族は文字を持たず、「ユーカラ」は口承で伝えられていたからである。
ここで少し横道にそれるが、その「ユーカラ」の一編を取り上げてその世界を垣間見ることにしよう。
海の神が自ら歌った謡「アトイカトマトマキ、クントテアシフム、フム」
アトイカトマトマキ、クントテアシフム、フム
長い兄様六人の神様、長い姉様六人の姉様
短い兄様六人の神様、短い姉様六人の姉様が
私を育てていたが、私は
宝物の積んである傍らに高床をしつらへ、その高床の上にすわって鞘(さや)刻(きざ)み鞘彫(ほ)り
それのみを
こととして暮らしていた。
毎日、朝になると兄様たちは
矢筒を背負って姉様たちと一緒に出て行って
暮れ方になると疲れた顔色で
何も持たずに帰ってきて姉様たちは
疲れているのに食事拵(あつら)えをし、私にお膳を出して
自分たちも食事をして食事の後が片付くと
それから兄様たちは矢を作るのに忙しく手を動かす。
矢筒がいっぱいになると、みんな疲れているものだから
寝ると高いびきを響かせて眠ってしまう。
その次の日になるとまだ暗い中に
みんな起きて姉様たちが食事拵えをして私に膳を出し
みんな食事が済むと、また矢筒を背負って
行ってしまう、また夕方になると
疲れた顔色で何も持たずに帰ってきて
姉様たちは食事拵え兄様たちは矢を作って、
何時でも同じことをしていた。
ある日にまた兄様たち姉様たちは
矢筒を背負って出て行ってしまった。
宝物の彫刻を私はしていたがやがて
高床の上に起き上がり金の子弓に
金の小矢を持って外へ出て
見ると海はひろびろと凪(な)ぎて
海の東へ海の西へ鯨たちが
パチャパチャと遊んでいる。すると
海の東に長い姉様六人の姉様が手を連ねて輪をつくると、
短い姉様六人の姉様が、輪の中へ鯨を追い込む、
長い兄様六人の兄様短い兄様六人の兄様が
輪の中へ鯨をねらいうつと、その鯨の
下を矢が通り上を矢が通る。
毎日毎日彼らはこんなことをして
いたのであった。見ると海の中央に
大きな鯨が親子の鯨が上へ下へ
パチャパチャと遊んでいるのが見えたので
遠い所から金の子弓に金の小矢を
番(つが)えて狙いうったところ、一本の矢で
一度に親子の鯨を射抜いてしまった。
そこで一つの鯨のまんなかを斬(き)って
その半分を姉様たちの輪の中へ
ほうりこんだ。それから鯨一つ半の鯨を
尾の下に入れて人間の国に
向かっていきオタシユツ村に
着いて一つ半の鯨を
村の浜へ押し上げてやった。
それから海の上にゆっくりと
泳いで帰って
来たところが、誰かが
息を切らしてその側をはしるものがあるので
見ると、海のごめであった。
息をきらしながらいうことには
「トミンカリクル、カムイカリクル、インヤンケクル
勇ましい神様大神様、
あなたは何のために、卑しい人間ども悪い人間どもに
大きな海幸(うみさち)をおやりになったのです。
卑しい人間ども悪い人間どもは、斧もて
鎌をもて大きな海幸をブツブツ切ったり突っついたり
削り取っています、勇ましい神様
大神様さあ早く大海幸を
おとり返しなさいませ。あんなに沢山、海幸をおやりに
なっても卑しい人間たち悪い人間たちは
ありがたいとも思わずこんなことをします。」
というので私は笑っていうことには
「私は人間たちにくれてやったものだから
今はもう自分の物だから、人間たちが
自分の持ち物を鎌でつつこうが斧で
削ろうがどうでも
自分たちの自由に食べたらいいではないか
それがどうなのだ。」というと
海のごめは所在無げにしているけれども
私はそれを少しも構わず海の上を
ゆっくりと泳いで
もう日が暮れようとしている時に、私の海へ
着いた。見ると
十二人の兄様、十二人の
姉様は、彼の半分の鯨をはこび
きれなくてみんなで掛け声高く
海の東に、グヅグズしている。
私は実にあきれてしまった。
私はそれに構わずに家へ
帰り、高床の上にすわった。
そこで後ふりかえって人間の世界の方を
見ると、私が打ち上げた一つ
半の鯨のまわりをとりまいてりっぱな男たちや
りっぱな女たちが盛装して
海幸をば喜び舞い海幸をば歓び踊り、後の砂丘
の上にはりっぱな敷物が敷かれて
その上にオタシユツ村の村長が
六枚の着物に帯を束ね、六枚の着物を
羽織って、りっぱな神の冠、先祖の冠を
頭に冠り、神授の剣を腰に佩(は)き
神の様に美しい様子で手を高くさし上げ
礼拝をしている。人間たちは泣いて
海幸をよろこんでいる。
何をごめが人間たちが
斧で鎌で私の押上げた鯨を
突付いていると言ったが、村長を
はじめ村民は、昔から
宝物のもっとも尊いものとしている神剣を取り出して
それで肉を斬って運んでいる、
それから私の兄様たち姉様たちは帰って来る
様子もない。
二日三日たった時、窓の方に
何か見えるようだ、それで
振りかえって見て見ると、東の窓の上に
かねの盃にあふれる程
酒がはいっていてその上に
御幣(ごへい)を取りつけた酒箸(さけはし)が載っていて、
行きつ戻りつ、使者としての口上を述べて云うには・・・
「私はオタシユツ村の人で
畏れ多いことながらおみきを差上げます。」と
オタシユツ村の村長が村民
一同を代表に私に礼をのべる
次第をくわしく話し、
「トミンカリクル、カムイカリクル、イソヤンケクル
大神様勇ましい神様でなくて誰が、
このように私たちの村に飢饉があって
もう、どうにも仕様がないほど
食物に窮している時に哀れんで下されましょう。
私たちの村に生命を与えてくださいました事、
誠にありがとう御座います、海幸をよろこび
少しの酒を作りまして、小さな幣を
添え、大神様に謝礼
申し上げる次第であります。」という事を
幣つきの酒箸が行きつ戻りつ申し立てた。
それで私は起き上がって、かねの盃を
取り、押しいただいて
上の座の六つの酒樽のふたを開き
美酒を少しずつ入れて
かねの盃を窓の上にのせた。
それが済むと、高床の上に腰を下ろし
見ると彼の盃は箸とともに
なくなっていた。それから鞘を刻み
鞘を彫り、していてやがて
家の中は美しい幣でいっぱいになっていて
家の中は白い雲がたなびき白いいなびかりが
ピカピカ光っている。私はああ美しいと思った。
それからまた、二三日たつと、
その時やっと、家のそとで、兄様たちや
姉様たちが掛け声高く彼の鯨を
引っ張ってきたのがきこえだした。私はあきれて
しまった。家の中へ入る様子を
眺めると兄様たちや姉様たちは
たいへん疲れて、顔色も萎(つか)れている。
みんなはいって来て、沢山の幣を見ると、
驚いてみんな何遍も何遍も拝した。
そのうちに、東の座の六つの酒樽は
溢れるばかりになって、神の好物の
酒の香が家の中に漂うた。
それから私は、美しい幣で家の中を飾りつけ、
遠方の神近所の神を招待し
盛んな酒宴を張った。姉様たちは
鯨を煮て、神様たちに出すと、
神たちは、舌鼓を打ってよろこんだ。
宴酣(えんたけなわ)の頃私は起き上がり
斯(か)く斯く、人間世界に飢饉があって
あわれに思い、海幸を打ち上げた次第や
人間たちをよくしてやると、悪い神々が
それをねたみ、海のごめが私に中傷したことや、
オタシユツ村の
村長が斯く斯くの言葉をとって私に礼をのべ
幣つきの酒箸が使者となってきたことなど
詳しく物語ると、神たちは
一度に揃って打ちうなづきつつ、
私をほめたたえた。
それからまた、盛んな宴をはり
神たちの、そこに
ここに舞う音踊る音は
美しき響きをなし、姉様たちは
提子(ちょうし)を持って席の間を酌して
まわるもあり、女神たち
と共に美しい声で歌うもある。
二三日たって宴を閉じた。
神々に美しい幣を二つ三つずつ
上げると神々は腰の央(まんなか)を
ギツクリ屈めて何遍も何遍も礼をして、
みんな自分の家に立ち帰った。
この後、何時でも同じく長い兄様六人の兄様
長い姉様六人の姉様短い姉様六人の姉様
短い兄様六人の兄様と一緒にい、
人間たちが酒を造るとそのたびごとに
私に酒を送り私のところへ幣をよこす。
今はもう、人間たちも食物の不足も
何の困ることもなく平穏に
暮らしているので、私は安心しています。
このように長い物語が途絶えることなく口承で伝えられてきたことは驚くべきことである。おそらく知里幸恵がローマ字と日本語で書き残したものの外にもたくさんの物語があったと思われるが、これらの「ユーカラ」をアイヌ民族の神々の叙事詩として捉えるだけでよいのであろうか。
ここで採り上げたのは「海の神」の謡(うた)であるが、「ユーカラ」にはほかにもいろいろな神が登場する。そして、それらの謡には共通の形があるので、叙事詩というよりもむしろ生活に密着した宗教説話と考えたほうがよいと思われる。そうでなければアイヌ民族の記憶力がいかに優れていたとしても、「ユーカラ」が絶えることなく謡い継がれるはずはないからである。おそらく仏教における読経やキリスト教の賛美歌のように部落での大きな行事が行われるたびに人々の前で謡われていたのではないだろうか。
盤珪の不生禅が三代で途絶えたのは、説法が師から大衆に向けて一方的な流れであったのに対して、「ユーカラ」が生き残ったのは民族の全員がそれを共有し生活の中で反復して謡ったからではないだろうか。
盤珪の説法には「不生の仏心が誰にでも備わっていて、それで全てが整うのであり、身びいきの心を起こすとそれが妨げられる」という決まった形はあったのであるが、簡素な言い回しに徹していたので、大衆が一定の説話として共有することはなかったのである。
それに対して、「ユーカラ」は豊かな大衆性を備えていた。そこには神々の物語があり、生活に密着した自然との共存思想が息づいているからである。
そして、盤珪の説法と「ユーカラ」には構造的に共通するところもあり、まことに興味深い。
例として、ここに掲げた「海の神が自ら歌った謡」を検討してみよう。
この謡の「海の神」である「私」は盤珪の説法では「盤珪」自身に当たるのであるが、最初に出てくる「長い兄様六人の神様、長い姉様六人の姉様、短い兄様六人の神様、短い姉様六人の姉様が私を育てていた」というのはどのような意味なのであろうか。
兄様は長い兄も短い兄も神様であるが、姉様はどちらも神様ではないので、兄様は盤珪の多くの先師に相当し、姉様は世俗で盤珪を取巻くさまざまな人たちに当たり、長短の区別は文字どおり影響を受けた長さを言い表すと考えることができる。
この謡の第一のポイントは、「鯨」である。
「見ると海の中央に大きな鯨が親子の鯨が上へ下へパチャパチャと遊んでいるのが見えたので、遠い所から金の子弓に金の小矢を番(つが)えて狙いうったところ、一本の矢で一度に親子の鯨を射抜いてしまった」。
この文節は盤珪が多くの先師を始め、多くの人々が懸命に努力しても得られなかった不生の仏心を掴み取ったことに相当する。「鯨」が「不生の仏心」であり、他の人たちがいくら矢を放っても当たらないのに、「私」すなわち盤珪は一度に鯨を射抜いてしまったのである。ここで「金の子弓に金の小矢」というのは盤珪のすぐれた資質と命がけの修行に相当するであろう。
鯨は親子の海幸(うみさち)であり、村人の飢饉を救うのであるが、喜んで海幸をいただいて感謝する村人に対して、十二人の兄姉たちは鯨の半分も運びきれずぐずぐずしているのである。「私はあきれてしまった」のであるが、盤珪の先師たちも「不生の仏心」を運びきれなかったのかも知れない。
次のポイントは「海のごめ」の登場である。
「勇ましい神様大神様、あなたは何のために、卑しい人間ども悪い人間どもに大きな海幸(うみさち)をおやりになったのです。卑しい人間ども悪い人間どもは、斧もて鎌をもて大きな海幸をブツブツ切ったり突っついたり削り取っています、勇ましい神様大神様さあ早く大海幸をおとり返しなさいませ。あんなに沢山、海幸をおやりになっても卑しい人間たち悪い人間たちはありがたいとも思わずこんなことをします」。
ここで「海のごめ」は人間を一方的に海幸のありがたみが分からない悪人と決め付けているが、「海の神」はそれに取り合わないところがおもしろい。それは盤珪が「仏心のたっといことを知りますれば、迷いとうても迷われませぬわいの」と説く「身びいきの心」の捉え方と似ているからである。
村人たちにはそのような心は毛頭無く、「生命を与えてくださいました事、誠にありがとう御座います、海幸をよろこび少しの酒を作りまして、小さな幣を添え、大神様に謝礼申し上げる次第であります。」と海幸の恩恵を感謝し続けるのである。そして、村には平穏が訪れるのであり、「不生の仏心」によって「一切の事が調う」のと同じ構図になっている。
このように、「ユーカラ」には盤珪の仏法と共通した形があり、煎じ詰めると釈迦の説いた初期仏教と同質性があるのである。しかも、口承でありながら途絶えることなく代々伝えられてきた仕組みは一切経(仏典の総称)によりさまざまに伝わってきた仏教よりも大衆性が強く、内容的にも文学的な説話の中に「法」と「無明」を巧みに説き明かしている点で簡素な宗教性を持ち、この両者があいまって民族内では平和な世界を実現していたように思う。
ここに、私は思いがけなく盤珪の大衆的で簡素な説法を学んでいるうちにアイヌ民族の叙事詩「ユーカラ」の中に同じような宗教性を発見し、同時に仏教の法理が時代や民族の違いを超えた普遍性を持っているという確信を得たのである。
法華経を受持(じゅじ・経典を信受して、心に念じ片時もゆるがせにしないこと)する人が「ユーカラ」の中に法華七喩(ほっけしちゆ・三車火宅喩などの七種のたとえ話)に共通する宗教説話を見出したならば、同様の感想を抱くであろう。
考えてみると、アイヌ民族は文字を持たないがゆえに自然の中に多くの神々を見つけたとも考えることができる。文字が無ければ、ある聖人の心の中に顕現した「法」を大衆が共有することは至難の業であるが、それを具体的な自然物に仮託することによってそれらを神々として崇拝することはできるからである。
人間だけではなく生きとし生ける全てのものが神であり、さらに自然そのものも神であるとするアニミズムの思想は約一万二千年前に農耕文明が起こる以前の狩猟・採集時代に発生したと言われているが、「ユーカラ」も自然と人間集団のつながりの中から流れ出たもので、それは未開文明の故の思想なのではなく、顕現した「法」を共有する手段として必然の流れであったと考えられる。
日本人の場合はそれが祖先の霊が棲む鎮守の森なのであり、仏教伝来以後は両者の関係は本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)として理解されるようになったのである。これは神の本地は仏であり、仏が神の姿を借りて現れた同一のものとする思想であるが、神も仏も根源的には「法」の顕現であるとの立場からすると当然のことである。
これまで盤珪の「不生の仏心」についてその法理を解き明かそうとしてきたが、別の角度から見ると、盤珪が大衆に示したものは「悟り」とか「成仏」などと言われているような特別な境地ではなく、日常の道徳的な「心の持ち方」を教えていると捉えることもできる。
盤珪も認めているように「不生の証拠」がないので、昔から「法」というものを明確に説明することは誰にもできなかったのであるが、「心の持ち方」をどのようにするかは自分で決めることができるのであるから、「法」にできるだけ近づくように生活することは大切な意味を持っている。
すなわち、日々の暮らしの中で「無明」に片寄りがちな心に気を配り、それをできるだけ小さくする心がけを持つことにより、知らず知らずのうちに「不生の仏心」が染み込んでくるということではないかと思う。
これは仏教の要諦として慈悲と智慧が車の両輪のように強調されていることに通じてくる。智慧は真理を見極め、悟りを完成させる力であるが、そのためには「ありとあらゆるものに対して慈しみを持ち、ありとあらゆるものと悲しみを共にする」慈悲の心が伴わなければ成就(じょうじゅ)しないからである。
ここで「ありとあらゆるもの」というのは人間を含めた大自然そのものである。
現代人は人間と自然を対比して考えがちであるが、昔の人々はそのようには考えず自然をもっと身近に感じていたようである。
ここのところを平安時代末期の歌謡集「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」からいくつか抜き出して学んで見たい。
「慈悲の眼(まなこ)は鮮やかに、蓮(はちす)の如くぞ開けたる。智慧の光はよそよそ(近づきがたい様)に、朝日の如く明らかに(第二二三歌)」
仏様の眼はしばしば青蓮(しょうれん)にたとえられるが、古の人の自然観と信仰心が融け合っている様が窺われる。私たちもこの歌の作者のように自然を身近に感じ取ってこの身に智慧を装(よそお)いたいものである。
もう一首掲げて見よう。
「ここにしも、湧きて出でけむ石清水(いわしみず)、神の心を汲みて知らばや(第四九六歌)」
もしやこの所にでも特別に湧き出た清水なのであろうか、その神の心を汲み取って知りたいものだという意である。現代人は湧き水に神の心を見ることは少ないと思うが、古の人は自然の中に神や仏を感得することはごく普通のことのようである。
しかし、私たちも世俗の混迷から離れて、山や海などの大自然に接したときには、ふと自然に融け込んでいて、あれこれ余計なことは考えていないと思う。「ああ、きれいだなー」とは言うかも知れないが、それは感嘆詞であり論理的な言葉ではない。そこには自分というものが存在しないわけではないが、計算的な思考はほとんど働いていない。
大脳生理学からみると感性をつかさどる右脳は活発に働いているが、論理的な思考を司る左脳はほとんど働いていない状態であり、人間は右脳で大自然と結びついているのかも知れない。
さて、梁塵秘抄には神や仏の歌ばかりではなく、生身の人間も歌われている。
「思ひは陸奥(みちのく)に、恋は駿河(するが)に通ふなり、見初(みそ)めざりせばなかなかに、空に忘れて止みなまし(第三三五歌)」
思いは満ちてみちのくに、恋する心はするがまで、遠く通って行く。なまじ見初めなかったならば、すっかり忘れて空に消え去ったものをという女心の歌であるが、どこか自分を客観視していて自分の心にさえも慈悲の情けを掛けているようである。
今日の世情を見ると文字どおり情けない事件が続発しているが、わが国に昔から伝わる民間説話にも慈悲の心を伝えるものが多いので、当時の人の心を学んで見たい。
これは「和泉(いずみ)式部小式部」伝説の抜粋である。
『和泉式部はお仕えする上東門院の播磨書写山へのご参詣のお供をしたときのこと、その日行き暮れた若狭の里に五郎左衛門という長者に頼んで、一夜の宿とされた。その折、この家にしきりに綿を摘んでいる一人の少女を見たので、和泉式部は何心なく、
「かくして、その綿うるか(このように苦労して綿を売っているのですか)」と尋ねられると、
その少女の返し、
秋川の瀬にすむ鮎(あゆ)のはらにこそ
うるかといへるわたはありけり
この即妙の歌に感じ入って、和泉式部がその少女の身の上を尋ねて見ると、うれしや、それこそ、日頃尋ねるわが子小式部であるらしい。驚き、少女が持つという証拠の絹と、和泉式部が持つものとを急ぎ合わして見るのに、地紋も異ならず、見知れる守り本尊もそのままにある。十三年以前に故(ゆえ)あって五條に捨てたわが子に疑いなしと、和泉式部の喜びは譬(たと)えるにものなく、めでたく親子と名乗りあい、都に召し連れて、やがて上東門院に宮使いせしめた。
発明であった小式部は容貌も美しく、二條関白教道や、その弟堀川右大臣頼宗などに慕われてもいたが、悲しくも世を早うした。それを、その頃紫野大徳寺のあたり小将保昌の別荘にあった母の和泉式部の身もあられずに悲しみ嘆くと聞かれて、上東門院には、いとうあわれがらせられ、御衣をぬがれ、これを敷布にたまわらんと、一首の歌を詠まれて涙を流された。
もろともに苔の下にはくちずして
うづもれぬ名を聞くぞかなしき
その頃、和泉式部が二度目の夫であった平井保昌も亦世を早うしたので、和泉式部は遂に此の世の常ならぬ事を思い知り、都一條北白川なる誓願寺の如来に歩みを運び、後世を求めて浮世を厭い、後には庵室をしつらいて引篭もっていたとも、諸国巡礼の途に上ったとも言い伝えられている。』
春来れば花の都を見てもなを霞の里(高草郡湖三村)に思ひをぞやる(和泉式部)
次に掲げるのは「静(しずか)の舞」伝説である。
『日本一よとの院宣を受けた舞の名人静御前が、頼朝の命により京都を発して鎌倉に下ったのは文始二年三月一日のことであった。六日及び二十二日に幕府の尋問を受けたが、静は義経の在処(ありか)知らずと答えた。当時また静は義経の胤(たね)を宿ししこと隠れもなかったので、頼朝はそれも仇の末であるからと梶原平三景時を召して、その腹を裂き、子を取りて棄(す)てよとの命であったが、さすが梶原もその残忍に賛しかね、分娩の後はともかくもなしたまわれと申し、やがて掘藤次親家(ほりとうじちかいえ)の許(もと)にお預けの身となった。ところが、頼朝の夫人政子は頼朝に勧めて、よき機会ゆえ、静の舞を見んことを願われた。頼朝も静の今ぞ義経の愛妾(あいしょう)であることを打ち忘れ、その舞を見んとの念に堪えかね、静にこの由を伝え、鶴岡八幡宮にて舞仕(まいつかまつ)れと命じた。静は辞して言えるよう。「わらわ、もとより賎(いや)しき身にて侍(はべ)る。何条(なんじょう)この身を惜(お)しみ候(さうろう)べき。されどすでに一たび身を判官(ほうがん)殿に任せまつりぬ。いかで容易(たやす)く人の前にて舞かなづらるべき、あわれ、わらわが心をくみたまいて、この事ひとえにゆるしたまわれ」と拒んだが、聞き入れられず、強(し)いて所望せられた。何せ、音に聞こえた静の前、鶴岡八幡宮にて舞うとの噂(うわさ)あるや、市人はさらなり、近傍の男女にいたるまで、この世に生まれ出た面目にとて、貴となく、賎となく、馳せ集まってただ人の山を築いた。侍所(さむらいどころ)では常に人を出して、群衆を制止警戒すれども、これはとの見物は、一期(いちご)に一度の大事ぞ疵(きず)はつくとも入らんずとて、身のなり行末をしらずしてくぐり入る間、なかなか騒動することおびただしく「義経記」には見えている。兼ねて聞く静の妙舞に胸をときめかしていた頼朝も、朝早くより、夫人政子は更なり、数多(あまた)の幕下(ばくか)を従えて、今や遅しと待ち待たれたほどに、日たけてようよう輿(こし)をかつがせて参った静は、やがて神前に祈念し、さて再び舞を拒んだが、再三の強制に止む無くたって舞うことになる。工藤左衛門尉祐経(くどうさえもんのじょうすけつね)鼓を打ち、畠山二郎重忠は銅拍子を勤めた。祐経は紺葛(こんくず)の袴そば高く取り、木賊(とくさ)色の水干(すいかん・詰襟、脇開けの衣)に立烏帽子(たてえぼし)被(かぶ)り、重忠は白き大口に白き直垂(ひたたれ)を着、紫革の紐着けたる折烏帽子を被りて出でた。静は遥かに神前に伏し拝み、さて立ち上がる。白き小袖一重ねに唐綾を上に重ね、白き袴踏みしだき、割菱縫うた水干に、丈なる髪を高らかに結いなし、この程の嘆きに面いと痩せたれど、眉細やかに薄化粧して、天女と見まごうばかりであった。かくて、鼓の音、鐘の声、天に響き、地に鳴り、一足二足進んで、皆紅の扇を開いて、軽らかに舞い出でた静は、さすがに先ず君が代を謡うたが、やがて水干の袖を外すと、扇打ち翳(かざ)して、
よしの山みねの白雪ふみわけて
入りにし人の跡ぞこひしき
と吟じ出でたので、人々思わず手に汗を握る。そらにもかまわず、静は更に別曲を歌い、また、
しづやしづ賤(しづ)のをだまきくりかえし
昔を今になすよしもがな
(賤は赤と青色の糸を使った乱れ織・をだまきは織物を作るために糸を巻いておくもの)
と高らかに謡い出でた。無情の梁塵もために動くとばかり、人々皆感涙を催したが、多きが中には、ひそかに静の身の上を案ずるものもあった。果たせるかな、頼朝は物をも言わで簾(みす)をおろし、「八幡宮の宝前において歌舞を施すに、関東の万歳を頌(いわ)うべきが理(ことわり)なるに、反逆の義経を慕い、あまつさえ、賤(しづ)のをだまき繰りかえし、昔の還(かえ)れと謡うは奇怪である」とはげしく怒って申すのを、夫人政子は懇(ねんご)ろに詫びて慰めて、その昔、わが身の頼朝を恋い慕いし時の事など物語り、ようやく怒りを休め、はなむけせしめて静を遇(もてな)した。「吾妻鏡(あづまかがみ)」はこの最後の場面、政子が静の心情をおしはかり誉めそやした一節を記して、「昔を思い出してください。君が流人として伊豆におわしたときに、私と芳契を結びましたが、そのとき父時政は平家を恐れてひそかに私を引き籠められてしまいました。しかし、私は君に和順し、暗夜を迷いながら深雨をしのいで君のもとに参りました。また石橋山の戦場に出られた時には、独り伊豆山に残り、君の存亡を知らぬままに、日夜、魂の消える思いでした。その愁いは今の静の心のようなものです。もし義経の多年の好(よしみ)を忘れて恋慕しないのならば、それは貞女といえないでしょう」と云っている。
静が謡うた二首の歌は、ともに古歌を少しく改めなして即興に独唱したもので、よくその赤誠(せきせい・まごころ)をあらわしている。すなわち、「古今和歌集」巻六壬生忠岑(みぶのただみね)の歌に、
みよしのの山に白雪ふみわけて
いりにし人のおとづれもせね
と見え、また「伊勢物語」に、
いにしえの賤(しづ)のをだまきくりかえし
昔を今になすよしもがな
とあるを取って、本懐を述ぶ、静の意気は稜々眼中ただ一人の愛人義経あるばかりであり、静の詩才はよく紫清の心を致し、殊に少納言が御簾をかかげて雪を観せた逸話にも勝って、女性(にょしょう)の情の極みをあらわしている。静繊弱(せんじゃく)の身をもって、太閤秀吉さえ、「天下の英雄吾と君のみ」と笑って木像の肩を叩いたといわれる源氏長者、征夷大将軍頼朝の木像ならぬ、その生きた本物の前に口をほざいて、朗々まっしぐらに反逆の情人を慕う。憚(はばか)らざる侠骨、骨を刺す歌謡、貞操義烈の美しさ、日本古今の女の意気を、彼女一人が最もよく尽くしたというべき美しき伝説物語。』
さて、日本人は明治時代以降になって科学万能の思想に陥り、人間として大切なものを失っているようである。近年になって自然現象や宇宙の姿が科学の発達により飛躍的に解明されてきたが、それでもなお未知の事柄がまだまだあるという事実を謙虚に考えると、人間の心もまた「未知なるもの」であるのは不思議なことではなく、そこに現代においても宗教の果たすべき役割があるのではないだろうか。
しかし、現代の日本人の多くは宗教性が乏しいと言われているので、せめてそれに代わるものとして自然に親しむことが大いに推奨されるべきである。
最近は各地の貴重な自然が世界遺産として登録され、自然環境の保護と人間との調和が図られていることは誠に喜ばしい限りである。
すなわち、地球環境を守るというだけではなく、大自然の中では経験的に人間の「無明」が日常生活よりも小さくなるので、おのずと「法」に近づく機会が増えると考えられるからである。
そして、大自然は人間にとって慈悲の心を育ててくれるかけがえの無い存在なのであるから、それを征服するなどという思想は厳に戒めなければならない。
古(いにしえ)の人のように自然物が神や仏であるとまで考える必要はないが、そこに山があるから山に登るのではなく、登頂という文字のとおりに登らせて頂くという心構えが大切である。
盤珪が「不生の証拠」がないために「信」を強調したようにいかなる宗教もそこに信心が伴わなければ成り立たない。
一方、私たちが大自然に接して感動することは誰も否定しないであろうし、古代の人たちが自然物を神や仏として崇拝したという事実はあるが、それが人間に「法」を与えてくれるという確たる証拠はない。
このような訳であるから、わが国では宗教や大自然の中に人間性の根幹を求めることは科学的でないという理由で、それに同調しない人が大多数であろう。
しかし、近年になって科学界の内部から従来信じられていた科学万能の世界観に異を唱える人たちが出てきているので、少々煩瑣ではあるが大事なことなのでその内容を知っておく必要がある。
たとえば、全ての科学の基礎となっている数学において興味深い議論がある。これはオクスフォード大学の数学教授ロジャー・ペンローズの言葉である。
「我々の思考の根底を成す計算的基底は数学的思考において最も明瞭にその姿を見せるという想像がなされることだろう。しかし、それは大きな間違いで数学的理解──数学的真理に対する洞察力──の中にはいかなる計算的記述によっても捉えることができないものが存在することを実証することが可能である。」
これはクルト・ゲーデルが一九三〇年に証明した「矛盾のない完全な自然数論の公理系を作ることはできない」という定理を論拠にしており、ペンローズの言葉によると「数学者は数学的真理を確認する上で、確実であることが分かっている計算的手続きを用いていない」ということである。
さらに、次のようにも述べている。
「適切な条件下では物理的システムの実際のふるまいが本質的には非計算的であるかも知れないという可能性がある。意識を持った脳がその一例である。ただし、このような考えを抱くにはいくつかの推測的要素が絡んでいる。第一に、物理学のどこに非計算的な行為が見出されるかが問われなければならない。私の考えではこのような要素は現代の物理学が基本的改革を迫られている領域に存在すると思われる。量子論における測定問題と呼ばれる領域である。大まかに言えば、そのような改良を経た理論は原子と分子のミクロレベルと、識別可能なマクロレベルとの間にもっと満足のいく連携を提供することとなろう。そのような理論がなければ脳の働きは決して適正に理解されえないと私は考える。数学的理解および他の種の理解がもつ非計算的な側面が説明されるためには、少なくともこのような性質を持った何かが必要とされるのである」
これは量子脳仮説といわれているが、平たく言えば「人間が持っている直観のような非計算的な側面が物理学において理論的に解明されなければ宇宙の真理は知られない」ということであろう。
ここで盤珪に戻るが、その教えの要(かなめ)のところは不生の仏心を信じることによって分別の念を生じないようにすることである。わが身は今生(こんじょう)に生まれながら、心は不生のまま生まれていないということは、常人の観念とは著しく異なっている。
それは量子論的不思議さである。すなわち、物理実験として光子や電子を一個ずつスクリーンに向って放出すると、それは物質である粒子としての性質と波動のように干渉し合う性質との二面性を示すのである。それはスクリーンの一つの穴だけを通り抜けたように見えるが、もう一つの穴の存在を知っているように振舞うのである。
人間もその身体は粒子からできているのに対して、その心は波動のように今生と不生の間を通り抜けて運動しているのであろうか。
そのように考えて見ると、盤珪の不生の仏心とはペンローズの言う「物理学における非計算的な行為」そのものなのかも知れない。
そのような意味で、仏教にはもともと「とらわれのない心」とか「空」という言葉があるが、これらが宗教上の概念にとどまるのに対し、「不生の仏心」はさらに一歩踏み込んで宇宙の真理をつかんだ概念なのである。
もし、わが身が生まれて来なければ心はどうなっているのであろうか。盤珪に会ってその答えを聞いて見たいところであるが、心はどこにあるのか知る者はいない。
さて、その昔、宇宙は静止して永遠不変であると考えられていたが、現代科学では宇宙は一様に膨張しているという観測的事実とその広がる速さは距離に比例するという観測事実(ハッブルの法則)から進化宇宙論(ビッグバン・巨大爆発理論)が定説となっている。
一方、仏教には法界(ほっかい)という宇宙観がある。それは物質的宇宙と精神的宇宙が両立しており、科学的宇宙論と違っているのは対象的思惟にとどまらずに観察者自身も含めて考察していることである。この点において法界のほうが科学的宇宙論よりも客観的であり真理を掴まえているのではないか。逆説的であるが、現代人が仏教を古くて抹香くさいものとして排斥することは誤りであり、先人の智慧を謙虚に学ぶ姿勢が大切である。
少し横道にそれるが、現代科学は昨今の遺伝子研究論文の捏造(ねつぞう)事件を見るまでもなく、総合的観点からの取組が不十分である。研究分野が細分化して専門家だけが知りうるものとなっていて、それに対する反省や批判が十分行われにくい傾向が顕著であり、学問のあり方として今日大きな転換点に立っていると言わざるを得ない。
さて、法界には因果関係により生滅変化する有為法(ういほう)と永遠不滅の無為法という世界観のほか、華厳宗では事法界(差別の伴う現象世界)・理法界(絶対平等の真理の世界)・理事無礙法界(りじむげほっかい・現象世界と真理の世界が融け合っている世界)の区別があり、さらに真言宗では宇宙は地・水・火・風・空・識の六つの要素から成るとされている。
特に、私には華厳経の宇宙観が現代科学の量子論のように不思議なところがあり興味深い。
華厳宗の法界については理事無礙法界が水と波紋の関係に譬(たと)えられる。
すなわち、理法界は水で満たされており鏡のように静かである。そして、そこに一つの動きが生じるとその中心点から波紋が広がり事法界が現れる。
しかし、波紋が生じたからと言って水の本質には何の変化もないというのが理事無礙法界である。
また、先にも触れたとおり華厳経の法理は「一即一切、一切即一」という概念に極まると言われているが、事法界の広がる波紋はすべて一つの中心点から生じるので一即一切であり、またその中心点は理法界においては特定され得ない存在であり、あらゆる点が中心点なので一切即一なのであろう。
そして、理事無礙法界ではあらゆる点がマトリックス(母親の胎内にある胎児のように両者が密接につながっている状態)のように重重無尽に自在に限りなく交流・融合している。
このように考えてくると、盤珪の不生の仏心は常にそのような波紋の中心点にあるようである。それは特定されない波紋の源でありながらその影響を全く受けない存在であるから、そのような人の心を涅槃(悟りの境地)と名づけているのかも知れない。
そして、理事無礙法界の波紋の広がりはちょうどビッグバン理論の膨張運動に似ているので、その中心点は全くの静寂な状態にあるのではなく、ビッグバンにおける爆発前のゆらぎのように未知の動機が働いているのかも知れない。
これまで見てきたように盤珪の不生の仏心を主題として法界や宇宙の成り立ちとの関係を考えていると、いつの間にか私の心の中にベートーベンの第九交響曲の第一楽章が浮かんでくる。
その聞きなれた導入部はまさしくビッグバンの予兆であるエネルギーのゆらぎとそれに続くビッグバンの爆発を連想させるからである。
そして、第一楽章は華厳経の事法界、第二楽章は理法界、第三楽章は理事無礙法界を表現しているようにも感じられる。第一楽章と同様に第二楽章と第四楽章もその導入部はビッグバンを想わせる響きを伴っているが、第三楽章は現象世界と真理の世界が融け合っている世界を表現するために、あえてこれを用いなかったようにも思える。
このように、私は第九交響曲はベートーベンの心が掴み取った宇宙の姿の表現なのではないかと考えたのである。
四つのそれぞれの楽章は宇宙の姿を法界の区別ごとに同時進行しているように聞こえるからである。第四楽章に当たる法界はもとよりないのであるが、ベートーベンは現実世界こそが実は理事無礙法界そのものであることをこの終楽章で示したかったのではないだろうか。
ここで、生涯をかけてこの第九交響曲の持つ意味を追求し続けたロマン・ロランの著書、片山敏彦訳の「第九交響曲」に学んでみよう。
《この第一楽章におけるほど、ベートーベンの作品が諸元素の力の場となり、精神によって解き放たれたそれ自身の法則にしたがって、それらの力を仮借なく戯(たわむ)れさせたことはかつてなかった。その諸力がまだ顔もない不動の威嚇的なイ・ホの和声にみなぎっている混沌(カオス)から立ち現れてくるのが見られる。最初の十六小節間、どのような局面が展開するか、イの長調なのか短調なのかだれにもわからない。そのいずれでもないらしい。イをドミナント(ニホヘトイの順で五番目の音)とするニ調、その極点はニ短調であるようだ。そしてそれは何という荒々しい圧制的な力と共に出現することであろう。(中略)
しかし、他のいかなる作品でも、第一動機は「第九交響曲」の第一楽章ほど――それはこの交響曲全体においても言えるであろう――首領や大将軍という支配者の役割を演じていない。第一動機は全部を包摂している。いたるところで、見えあるいは見えない形でその現存が感じられる。
その第一動機とはどんなものか。それは下行分散型のニ短調の完全和音以外の何ものでもない。
しかし、何という下行だろう。衝突しあう黒雲のうなり、すなわち十六小節も不動のイ・ホの和声の終わりに来る二オクターブにわたる何という崩壊であろう。
一般に音楽の流れを文法上の諸要素に分解するという技術的分析が不満足な結果に終わるのは、本質的なものすなわち言葉の下に埋もれ潜む火を十分に考慮しないことから来ている。(略)
天才の作品を研究するときは火を消すことから始めないようにしよう。なぜなら、天才の本質を成しているのはまさにその火であり、「第九交響曲」は溶解状態にある一つの天体だからである。(略)
この強引な溶解や溶接を行ったものが理知的な意思でないことは確かである。理知的な意志は存在の深みから現れて存在を襲った「根本想念(イデー)」すなわち圧制的な「力」によって命じられた仕事の監督をする従順で勤勉な職工長であった。ベートーベンの思想はこの力にとり付かれているように思われる。彼はその力の中で生きている。その力が彼なのである。彼はこの楽章(終楽章)を作曲しているその年に、ルイ・シュレッサーに語っている。『奥底にある想念(die zu Grunde liegende Idee)が私を捉えて離さない。その想念は昇ってきたり大きくなったりする。ちょうど鋳造(ちゅうぞう・鋳物を作ること)でもするときのように、それの伸び広がっていく有様が聞こえたり見えたりする。それは私の精神の前面に立っている・・・』精神にとっては前面だが、魂にとっては内部である。それは生命の実体そのものとなっている。
その楽想はこの楽章の他の大きな動機と同様に、和声というよりもはるかにリズムである。その楽想について行われてきたさまざまな学問的分析が、和声関係だけに厳密に専念していることに私は驚く。和声関係は確かに興味深いが、あの解き放たれた旋風においては、いくつもの流れを衝突させあう力強いリズムに比べて、それ以上にもそれ以下にも興味があるとは思われない。私が先ず明らかにしたいのはこれらのリズムである。なぜならあの嵐の精(プロスペロー・「シェークスピア『あらし』の主人公」すなわちベートーベン)の大きな顔立ちが描いているものこそこのリズムに他ならないからである。》
ここでロマン・ロランは宇宙とは言っていないが、「第九交響曲」は溶解状態にある一つの天体と言っている。
ベートーベンの「奥底にある想念」はまさしく宇宙の波紋の中心点であり、そのイデーは力強いリズムに乗った波動のうねりとなって昇ってきたり大きくなったりしながら伸び広がっていく。ベートーベンの心に「埋もれ潜む火」はまさにビッグバンの予兆であるゆらぎであり、そのイデーはビッグバンの爆発のように「第一動機となって全部を包摂し、いたるところで、見えあるいは見えない形でその現存が感じられる」のである。
「第九交響曲」を音楽史上最高の傑作としているのはこのような宇宙の真理につながる深遠な思想性にその要因があるのではないか。それゆえに私たちはその音楽を聴くたびに感動し心が清められるのだと思う。
しかし、残念なことにベートーベンがこの終楽章で謳い上げた「人々の友愛によって地上に実現される神の国」は遥として実現していない。それは「現実世界の理事無礙法界への転換」なのであるが、その理念に反して、現実には国家や人間の活動が美しい波紋を描いているとはとても言えない世界が広がっている。ベートーベンの後世の人たちは彼の遺した音楽を聴いていても、そこに表現された思想を深く理解できていないし、その偉大な教訓を生かしていないことは誠に残念なことである。
この終楽章では独唱や合唱が活躍している。楽器の奏でる深遠な世界に突如として歌唱が参加してくることに違和感を持つ人がいるかもしれない。
しかし、このことは宇宙に人類が登場したように法界を表象する「第九交響曲」にとっては必然の舞台装置なのである。
ロマン・ロランは次のように綴っている。
『第四楽章とまえの三つの楽章との精神的で有機的なつながりと、この交響曲全体をつらぬく統一の意思とをあえて疑おうとする人がいることに、私は驚き入る。――この統一の意思は初めの三楽章を要約しながら喚び起こし、また「歓喜への頌歌(しょうか・ほめたたえる歌)」がその欠くべからざる補足であることを宣明しているフィナーレの合唱への器楽的導入部で、ベートーベンによって絶対的に確言されているのに。絶対音楽の著名な選手たちが、シェンカーがしたように、純粋音楽の寺院に不当な言葉が導かれているこの合唱部分は少しも重要ではないし、またこの横紙破りのフィナーレも絶対音楽の諸法則または独自の諸法則に完全に呼応するものであると、躍起になって証明しようとしているのを見て、私は楽しんでいる。――これらの聖なる諸原理に対するベートーベンのような人のこうした、これほどまでの途方もない罵倒的態度が、その生涯と芸術的信念のすべてをこれらの原理にささげてきた律儀な人々を困らせ、ひそかにいらだたせていることを私は理解しないでもない。だが、創り上げられた秩序を深く尊敬しながらも、この天才がその秩序の鼻面を引き回したいという逆らいがたい要求を感じたのもこれが初めてではない。そしてこれが最後でもないだろうことを我々は希望しよう。こうした天才にとっての第一法則は彼が忍耐強く創り上げ、試みた彼自身の諸法則に従うことである。これらの諸法則が自然(内なる自然・本性)の深い秩序に逆らうものではないことも確かであろう。裏切られることのない真実なもの、唯一のものである諸法則がもたらされるのも、この自然からである。』
第四楽章の合唱部分で雄々しく歌われる歌詞は詩人シラーの「歓喜への頌歌」を手本にしている。ここで手本と言うのはベートーベンによってシラーの原詩が再構成して使われているからであり、自らの内なる呼びかけによって編み直したのである。
バリトン・ソロの《Freude!(フロイデ・歓喜よ)》《Freude!(フロイデ・歓喜よ)》の呼びかけで始まる。
「歓喜よ、神々の美しい火花、楽園の娘、我々は感激に酔いしれ、おんみの天なる聖所に入る。世の慣習がむごくひきわけたものを、おんみの魔力は再び結び付ける。おんみの優しい翼が羽ばたくところ、全ての人、みな兄弟となる。」
この第一ストローフ(歌詞のある旋律)において、「天なる聖所」は理法界すなわち絶対平等の真理の世界である。厳かなバリトン・ソロはそこへのベートーベンの導きの強い意思を表しているようである。
「ひとりの友の友となる幸運に恵まれた者は、ひとりの気高い女性を勝ち得た者は、その歓喜の声をわれらの声に合わせてあげよ!たとえ一つであれ、この世で人の魂を、我がものといいうる者も!けれども、そうできなかった者は、泣きながらひそかに、我らの集いより去れ!」
この第二ストローフにおいて、事法界すなわち差別の伴う現象世界がそのまま映し出されている。ソロの四重奏が登場し、「気高い女性」のところからソプラノが響いてくる。
「全ての生物は自然の乳房から歓喜を飲む。善いものも悪いものも、すべて自然のばらの跡をたどる。自然はわれらに、くちづけと葡萄と、死の試練までへた友とを与えている。虫にも快楽が与えられ、そして天使ケルブは神のみまえに立っている。」
この第三ストローフにおいて、生きとし生けるものすべてを包み込む大自然の豊かさが歌い込まれている。理事無礙法界すなわち現象世界と真理の世界が融け合っている世界はバリトン・テノール・アルト・ソプラノのソロに続いて、全合唱でおおらかに表現され、どこまでも波紋のように広がっていく。天使ケルブは誰あろうベートーベンその人なのである。
普通の音楽家であれば、これまでの三つのストローフで劇の幕は下りるはずなのであるが、ベートーベンは自分だけが天使であることに満足しなかった。
しばらくの沈黙の後、テノールの歓喜の叫びが凱旋する。
「大空のすばらしい広野を横切って、神の星々がよろこばしげに飛ぶように、兄弟たちよ、おんみらの道を走れ。あたかも勝利に向って喜ばしげに走る英雄のように!」
これはシラーの第四ストローフのうち最後の四行だけを借用したもので、理事無礙法界を現実世界に実現したいとするベートーベンの呼び掛けなのであろう。
そして最後にもう一度、念を押すようにベートーベンは男声合唱を使って「天なる聖所」すなわち絶対平等の真理の世界へ人々を導くのである。
「抱擁しあえ、無数の人々よ!この口づけを全世界に!兄弟よ、星々の円蓋の上に、必ずやいとしい父は住まわれる。
おんみらはひれ伏しているか、無数の人々よ?星々の円蓋の上にこそ、彼を探し求めよ!星々の上にこそ、必ずや彼は住まわれるのだ。」
ロマン・ロランは「第九交響曲」はベートーベンの苦難の道の回顧であるとして次のように述べている。
「多くの希望や経験がにがく失望的な結果に終わるのを見た、傷痕に満ちて年を経た精神の中で行われる過去の生の喚起なのである。年を経た精神は陰鬱(いんうつ)になりがちであり、幻影を抱くだけの若々しい力を失っている。にもかかわらず、精神はテラスの欄干に肘(ひじ)をつき、はるかかなたのうっとりする幻の前に夢見つつ、その力を再びよみがえらせようとするだろう。しかし、それはもう昔のままの姿ではない。若い愛情や若い誇りや若い野心や若い涙の、あの生(き)一本の奔放さに欠けている。しかし、それに代わって神々から類(たぐい)ない贈り物を、すなわち生命のもろもろの力を支配する、と同時にそれから解き放たれてもいる、あの老プロスペロー(シェークスピア『あらし』の主人公)の魔力を得ているのである。」
第四楽章に使われているシラーの第二ストローフにおいて、「ひとりの友の友となる幸運に恵まれた者は、ひとりの気高い女性を勝ち得た者は、その歓喜の声をわれらの声に合わせてあげよ!たとえ一つであれ、この世で人の魂を、我がものといいうる者も!けれども、そうできなかった者は、泣きながらひそかに、我らの集いより去れ!」とある。
この一節から私はベートーベンの「不滅の恋人」を連想してしまう。
「不滅の恋人」というのはベートーベンがその人に当てた手紙が本人の手に渡った後、何らかの理由でベートーベンに戻されたのであるが、その死後自室から偶然発見された手紙の中に「不滅の我が恋人よ」という言葉が書かれていたのである。
そして、そこには宛名が書かれていないので誰にあてた手紙なのか不明であり、さらに発送されたはずのこの手紙がなぜ本人に戻されたのかについては全く謎なのである。
この謎を解くことはベートーベンの生き方を知る上で重要な鍵になる。
ベートーベンの周りには多くの女性が登場してくるので、手紙の受取人がいったい誰なのかについていろいろな説があるが、本書ではそれを知ることが目的ではないので深くは取り上げない。
ロマン・ロランは当初、その人はベートーベンの友人であるハンガリーの貴族フランツ・ブルンスビックの姉であるテレーゼ・フォン・ブルンスビックと推測していた。彼女は理知的な人で、少女時代にベートーベンからピアノのレッスンを受けたときからの知り合いだったのである。
この手紙の内容はロマン・ロランの記述によると、おおよそ次のようである。
「わが天使、わが全て、わが自己そのものである人よ、私の心はあなたに伝え得ないほど満ち溢れている・・・おお、私がどこにいてもあなたは私と共にいる。・・・おそらく日曜日が来るまでは私からの消息をあなたがお受け取りにはなるまいと考えると私は泣けてくる。――あなたが私を愛してくださるだけ、いや、それよりずっと強く私はあなたを慕っている・・・ああ!あなたに逢わずに生きているこの生活は味気ない!――こんなに近いのに、こんなに遠い!――私の思いはあなたに向って飛ぶ、不滅の我が恋人よ私の思いは時折喜ばしくてやがて悲しくなり、運命に問いかけ、運命が私たちの望みを叶えてくれるかと尋ねながら飛ぶ。――私はあなただけと共に生きるか、全く生きないかどちらかだ。・・・あなた以外の女性が私の心を占めることは、絶対に絶対に、絶対にありえない。
――おお、こんなに慕いながらなぜ別々に生きなければならないのか?しかも、ウィーンでの私の今の生活は全くわびしい。あなたへの愛が私を人間の中のもっとも幸福なものにしたと同時に最も不幸なものにした。――安心していてください――安心していてください――私を愛してください――今日も――昨日も――あなたへの、あなたへの、あなたへの、憧(あこが)れの涙をどんなに流したことか!我が命よ、我が一切よ――さようなら――おお、いつまでも私を愛してください。――あなたの愛するL(ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベンの頭文字)の変らぬ心を誤解しないでください――この心は永久にあなたのもの、永久に私のもの、永久に私たちふたりのもの。」
このような激情を持ちながら結局のところ、その恋は実を結ばなかったのであるが、ロマン・ロランは財産や身分の相違あるいはベートーベンの性急さや病身で厭人(えんじん・人嫌い)的な性格などが原因なのではないかと述べている。
しかし、私にはこの手紙の内容そのものが謎めいていると感じられる。
手紙を相手から戻されているので傍目(はため)には失恋のように見えるが、ベートーベンが「ひとりの気高い女性を勝ち得た者」であったのか、あるいは「そうできなかった者」であったのかという次元の問題ではないと思う。
その根拠は先に掲げたベートーベンの言葉の中にある。『奥底にある想念(die zu Grunde liegende Idee)が私を捉えて離さない。その想念は昇ってきたり大きくなったりする。ちょうど鋳造でもするときのように、それの伸び広がっていく有様が聞こえたり見えたりする。それは私の精神の前面に立っている・・・』
ベートーベンの心には『奥底にある想念』が常に主役の坐を占めているのであり、それがベートーベンを捉えて離さないのであるから、「不滅の恋人」との別離を選択せざるを得なかったのであろう。
彼はすでに『奥底にある想念』がもたらす絶対平等の真実の世界である理法界に踏み入っていたので、そこに安住したい気持ちのほうが勝ったとも言える。
ベートーベンはこの手紙の中で繰り返し「不滅の恋人」への愛が真実であることを訴えている。
しかし、一方において彼は愛の言葉だけではなく、その理由を示してはいないが、「我が命よ、我が一切よ、さようなら」とはっきり別れの言葉も書いているのである。
すなわち、この手紙は恋を成就させることを願う恋文でもあるし、別離を告げるものでもあるので矛盾しているのであるが、理由が書かれていなければその手紙を受け取った「不滅の恋人」も心が混乱するだけであったろう。そのように考えると、この手紙が「不滅の恋人」からベートーベンに差し戻された状況が見えてくる。
しかし、ベートーベンが手紙を書いた当時それを明確に意識していたか否かに関わらず、ベートーベンを捉えて離さない『奥底にある想念』なるものは他人には理解を超えるものであり、いかに問い詰められてもそれを言葉で説明することは不可能である。
なぜならば、言葉は自己と他を区別する対象的思惟に基づいて発せられるものであるが、『奥底にある想念』は他が介在しない自己そのものであるから言葉にならないのである。自分の眼で他人を見ることはできるが、自分の眼を見ることができないようなものである。
したがって、手紙の末尾にある「この心は永久にあなたのもの、永久に私のもの、永久に私たちふたりのもの」と言う言葉はベートーベン自身にとっては偽りではないのであるが、『奥底にある想念』を知り得ない「不滅の恋人」にとってはそのとおりに受け入れることは到底できなかったのである。
ベートーベンはそれから十数年後に、幾多の筆舌に尽くせない苦悩を乗り越えた証(あかし)として一八二四年に「第九交響曲」を完成させたのであるが、彼が当時持っていた思想を確認するために、その途上の一八一五年に彼が書き残した「手記」(片山敏彦訳)の一つをここに掲げよう。
『神からはいっさいが清らかに流出する。私がいく度か情念のため悪へ混迷したとき、悔悟(かいご・前非を悔いること)と清祓(せいふつ・悪を清め流すこと)を繰り返し行うことによって私は、最初の、崇高な、清澄な源泉へ還った。―
―そして、「芸術」へ還った。そうなると、どんな利己慾も心を動かしはしなかった。常にそうあってくれるといい。樹々は果実の重みにたわみ、雲は爽(さわ)やかな雨に充ちるとき沈降する。人類の善行者たちも自分の豊かな力に傲(おご)りはしない。もしも美しい睫毛(まつげ)の下に涙が膨(ふく)らみ溜(た)まるならば、それが溢(あふ)れ出ないように、つよい勇気をもってこらえよ。通る径(こみち)が或いは高くなり或いは低くなり、正しい道の見究めがたいこの世のお前の旅路において、お前の足跡は確かに坦々(たんたん)たるものではないであろうが、しかし、徳の力は、常に正しい方向へお前を前進せしめるであろう。』
盤珪さんの教えを学んでいるうちに、いつの間にか取りとめもなくベートーベンまで筆が及んでしまった。これは不生の仏心というむずかしい観念を自らの人格を通じて大衆に伝えようとした盤珪さんの説法を読み解いていくうちに、そこにベートーベンの追い求めた音楽と共通するものが明確に感じられたからである。
「兎角(とかく・とやかく言うこと)はない、皆の衆、不生の仏心には迷ひ無い事を知らしやれい。一切の迷ひと申すものは、心の底に有つて起こるやうに思はしやるけれども、本底(心底)に有つて起りはしませぬわ。みな、人の我欲のきたなさ、身のひいきの強さに、境縁(相対関係)に対し、むかひな物(対象物)に貪著(とんじゃく)し、時々に、堪へられず我(わが)迷ひを出かして置いて、人が迷はすように思ふは、愚痴なことでござらぬかいの。その境縁に対して、我(わが)迷ひを出かさぬに、どこに迷ひが有るものでござる、有りはしませぬ。さて、かうしたことでござる程に、少しの事にも迷ひを出かし、仏心を迷ひに仕替えぬ(組み替えない)やうにさしやる事、肝要と申すものでござる」
この盤珪さんの説法は先に掲げたベートーベンの手記と言葉は違うが、そこで伝えようとしていることは全く同じである。
盤珪さんはベートーベンのように名曲は残さなかったが、その説法は時を超えていつまでも大衆の心に響き続けるのではないだろうか。
(完)